自宅警備員のゆる〜いブログ

30代のサラリーマンがF1、ガジェット、家電、ガンダム、英語等の些細な情報を発信。

父が癌になったときの父の決断

「癌になった」

 

1年前、仕事中に急遽父から電話がありました。

言葉を失うとは、多分あの時の心情を表す表現が一番適していると思います。

 

 

 

私は実家を出ており、両親と一緒に暮らしていません。  妻と他県に住んでおり、何か急な事があっても、直ぐに駆け付けられない距離で生活をしています。

 

私が両親に逢うのは、年に数日間。 年末年始、ゴールデンウィーク、お盆のいわゆる長期連休の時に帰省し極力同じ時間を過ごすように意識しています。  幸い妻も理解してくれており、長期連休は自由にさせてもらってます。  

家族は皆仲が良く、いつも帰省を楽しみにしています。  

帰省すると毎回豪華な食事を準備してくれています。  「そんなにお金使ってまでしなくていいのに。。。」といつも心配しつつ、その気遣いに感謝しながら、そのおもてなしに甘えています。  

うちの家族は、久しぶりに逢った時と別れ際にはいつも「ハグ」して別れます。  駅、空港、関係なく必ず「ハグ」します。  実はこの習慣は私が始めた事で、最初は両親も恥ずかしがっていましたが、今では両親から「ハグ」をしてくれます。

 

 

1年前、午後の仕事中に急遽父から電話がありました。

「癌になった」と。

「えっ?」

父が発した言葉を理解するまで数秒かかってしまいました。

日常で耳にする言葉ではありますが、理解することを拒絶するかのような数秒でした。

 

その日の仕事は全く手に付きませんでした。

 

「癌=死」

この図式が私の頭にあったからです。

「父がいなくなる」そんな事想像も出来なかったし、したくもありませんでした。

とりあえず帰宅して詳しい話を聞くことにしました。

 

病名は「中咽頭癌」、そしてステージ3。

「ステージ4しかないという事は。」絶望的な印象を受けました。

喉、それも声帯の近くに癌があり、首のリンパ節に転移していると説明を受けました。

「転移」、一番聞きたくなかった言葉でした。

 

「癌、ステージ3、転移」。

父との電話の後に涙しか出ませんでした。

ただ、その話を医師から直接聞いた父が一番ショックだったと思います。

 

医師からのガン宣告を受け、「今治療すれば喉の癌とリンパ節に転移した癌を取り除く事ができ、声帯も残せるし、食事も自由に出来るようになる」と言われたそうです。

幸いと言って良いのか分かりませんが、病状はほとんど無く、ましてや痛み等は全くなかったそうです。  唯一、声がハスキーになっていましたが。

 

父は手術以外の方法で何とか出来ないか色々調べました。 インターネットで紹介されている医師、病院に行きセカンドオピニオンを得てみたり。。。

悩んだ末、父は入院、手術をしました。

 

 

私は迷っていました。  手術当日に立ち会った方が良いのか、と。

平日だったので勿論仕事があります。  しかし後悔するくらいなら行ったほうが良いのではないかと。  

結局手術当日は諦め、その週末に逢いに行くことにしました。

 

手術は実に10時間以上かかったそうです。

 

術後2日後、父に逢いました。  首から上は包帯でぐるぐる巻き。  喉の手術だったので、術後は話せません、食事も出来ません。  

ベッドに横たわった父を見て「ハグ」しました。  父の目には涙がうっすら見えたような気がします。

父とはホワイトボードで筆談でした。

途中、痰がからみ呼吸が苦しくなります。  1時間に1度のペースでナースコールをし、痰を吸い取って貰ってました。  また寝る時にナースコールボタンを常に持っていないと、呼吸困難になる恐怖心があり、なかなか眠れなかったそうです。

そんな状態が2ヶ月続きました。  

 

その後は順調に回復し、術後3ヶ月後には話も出来るようになり、入院から8ヶ月経った頃に退院しました。  後に聞いた話ですが、父の回復力は凄まじく、その病院では有名な話になっているようです。

 

退院する時に主治医に抗がん剤治療を勧められました。

父は迷うことなく、抗がん剤治療をしない決断をしました。

 

その決断の背景には、「余生は子供と一緒に普通に生活がしたい」との思いがある、と言っていました。  また、術後の検査でもがん細胞の数値は見られず、保険としての辛い治療は我慢出来なかったようです。  

 

生死の瀬戸際に立った父は家族との時間を選びました。

そんな父の決断に私が貢献出来ることは極力帰省して元気な顔を見せることだけです。

 

これからお盆休みのチケットを取ろうと思います。